蝉休の雑文日記

色々なことを書いていこうと思います。

蝉休旅録 青鬼集落への道2

2ミカコ号

 

 

    駐輪場には僕の愛車が、いつもと変わらない佇まいで停まっていた。スーパーカブ50カスタムのミカコ号(仮名)。ミカコ号との出会いは大学二回生の春だった。

 

    その時ミカコ号は、地元のバイク屋のガレージの端っこで埃まみれになっていた。

    中学生の頃から、僕はスーパーカブというバイクに憧れていた。恐らくそれは、テレビ番組であるタレントがスーパーカブに乗って旅をする姿を見た時からだろう。独特なフォルムと、小さいながらもどこまでも走って行く力強さに、当時の僕は強く惹かれた。

    大学生になり運転免許を取得してからは、よく店頭やインターネットで50㏄のカブを探した。そのどれもが、勿論中古車も含めて、僕の僅かなバイト代で買えるような値段では無かった。

    埃まみれでもう売り物として扱われていなかったそのスーパーカブは、ずっとそこで僕を待っていたのだ。

    ミカコ号を指し、店主にまだ動くのか尋ねた。店主は初め驚いたような顔をしたが、動くはずだと言った。試しにエンジンをかけると、確かに動く。トコトコトコとスーパーカブ特有のエンジン音が響く。ギアをニュートラルに入れたまま、スロットルを捻る。エンジンの回転数が上がり、フォーーンと良い音が聞こえる。エンジンは元気なようである。

    試乗させてもらえるよう頼み、ミカコ号が数年ぶりにガレージの外へと引っ張りだされた。跨り、ギアを一速に入れる。僕はバイクに乗るのがこの時初めてであった。右手をゆっくりと捻る。トコトコトコと小気味の良い音を鳴らして、車体がゆっくりと前に進んだ。少しずつ加速してゆく。それに合わせ、エンジンの回転数も上昇する。おそるおそるシフトペダルを前へと踏み込んだ。

「ガッコン」

僅かな衝撃と共に、ギアが一速から二速へ入り、エンジン音が変化する。ミカコ号はさらに加速していく。そのまま三速、四速へとシフトチェンジする。シフトチェンジに合わせ、ミカコ号は速度を上げた。とても良い気持ちだった。今まで感じたことのない速さで風を切る。右のハンドルを少し捻るだけで、どこまでも進んで行く。

    状態の良いバイクだった。見た目こそ埃まみれで古っぽく、走行距離も3万キロを超えていたが、それでもエンジンには何の問題も無い。

    このスーパーカブを購入するとしたらいくらなのか、店主に訊いてみると、

「そのバイクで良いなら君の望む値段で売るよ」

と言ってくれた。その時僕がバイク購入に充てられる予算はせいぜい五万円程度だった。

「五万円じゃどうですかね」

「いいよ」

一言で交渉は成立した。内心で僕は飛び跳ねた。これまでずっとスーパーカブを探してきたが、スーパーカブを中古で買おうとすると、五万円などは優に超える。超えないものがあるとすれば、相当状態が悪く、乗り物にならないようなものだろう。そんなだから、僕はほとんどスーパーカブに乗るのを諦めていた。スーパーカブを諦め、僕の予算で乗れるバイクを探しに、地元の小さなバイク屋を訪れたのであった。身体の芯が微かに熱くなるのを感じていた。恋い焦がれたスーパーカブに乗ることができる。

    納車をするから後日また取りに来てとのことだったので、その日はそのまま店を後にし、数日後、再びその店を訪ねた。ミカコ号は店頭の一番目立つ所に置かれていた。背筋を伸ばし、遠くを眺めているようなスーパーカブ特有のフォルムで、僕を出迎えてくれた。埃は拭われて小綺麗になり、荷台の下部にはナンバープレートが取り付けられている。初めて見た時よりも少し立派になったような気がした。

    バイクに乗るには保険に入らなくてはいけないのだが、その保険に入るのにもお金はかかる。ところが店主は、保険料も込みで五万円でいいと言ってくれた。至れり尽くせりである。店主にお金を渡し、店主からは諸々の書類を渡された。こうして、ミカコ号が僕の相棒になった。

 

    メーターを確認すると、走行距離は四万キロに達しようとしていた。この四万キロの距離を、果てしない距離だと思うか、それともまだまだ四万キロだと思うかは、人によるだろう。ミカコ号は四万キロでは満足していないように、僕は感じた。

    キーを差し込み捻る。メーターの『N』のランプが、緑色に点灯する。ハンドルを握り、親指でセルを押した。キュイキュイと甲高い音が一瞬だけ響き、その音が消えるのと同時に、今度はトコトコトコと特徴的な音が響く。エンジンは今日も機嫌がいい。

    ミカコ号に跨り、シフトペダルを一度前へと踏み込む。『N』のランプが消える。それを確認すると、ハンドルを握った右手を手前に少しだけ捻る。エンジンの回転数が上がり、ミカコ号の車体はゆっくりと前に進んだ。段々とエンジン音が大きくなり、速度も上がる。シフトペダルを再び前へと踏み込む。

「スチャッ」

エンジン音の変化だけが、ギアが二速に入ったことを教えくれる。3速、4速と、ミカコ号はどんどん加速する。

    東京という街は、夜中になっても眠らない。それでも、昼間よりはずっと静かで、人の息吹も遠くに感じる。心地よいエンジンの音を聞きながら、秋の冷たくなり始めた空気の中を走って行く。青鬼集落への旅が、こうして始まった。時刻は午前0時。