蝉休の雑文日記

色々なことを書いていこうと思います。

夏になると外に出たくなる。

冬と夏、どちらが好きかと訊かれると迷うことなく夏と答える。夏は大好きだ。冬は嫌いだ。夏が来ると、ノスタルジックな気持ちになる。焼けるような日差しにセミの鳴き声、遠くで揺れる陽炎。それらにどこか懐かしさを感じるのは、僕だけではないと思う。

 

幼い頃、僕は虫採りが大好きな少年だった。おばあちゃんに「大きくなったら昆虫博士だねぇ」と言われて以来、僕は大人になったら昆虫博士になるんだなあと何故か漠然と考えるようになった。

幼稚園生くらいで野球と出会う。それ以来、僕は大人になったらプロ野球選手になるんだなあと考えるようになった。

幼い僕は、生きていればそのうち勝手に昆虫博士になれるし、勝手にプロ野球選手になれると思っていた。将来の夢とはそういうものだった。

 

今の僕は文系の大学に進み、昆虫とは無縁の学問を修めた。虫は相変わらず好きだが、虫の知識は幼い頃の僕のまま。

野球はたまに草野球に参加する。

 

昔の僕が疑うことなく描いていた今の僕は、僕の描いた水彩画のように想像とはズレたものになっている。

 

懐かしいことを思い出すのは、心に余裕がある時だ。冬の間はそんなこと思い出しはしない。極端に寒いのが嫌なので。寒さと冬が醸す淋しさに耐えるので精一杯だ。

 

いつもと違う夏でもいつも通り暑いので、そこは嬉しい。

 

 

蝉休旅録 青鬼集落への道2

2ミカコ号

 

 

    駐輪場には僕の愛車が、いつもと変わらない佇まいで停まっていた。スーパーカブ50カスタムのミカコ号(仮名)。ミカコ号との出会いは大学二回生の春だった。

 

    その時ミカコ号は、地元のバイク屋のガレージの端っこで埃まみれになっていた。

    中学生の頃から、僕はスーパーカブというバイクに憧れていた。恐らくそれは、テレビ番組であるタレントがスーパーカブに乗って旅をする姿を見た時からだろう。独特なフォルムと、小さいながらもどこまでも走って行く力強さに、当時の僕は強く惹かれた。

    大学生になり運転免許を取得してからは、よく店頭やインターネットで50㏄のカブを探した。そのどれもが、勿論中古車も含めて、僕の僅かなバイト代で買えるような値段では無かった。

    埃まみれでもう売り物として扱われていなかったそのスーパーカブは、ずっとそこで僕を待っていたのだ。

    ミカコ号を指し、店主にまだ動くのか尋ねた。店主は初め驚いたような顔をしたが、動くはずだと言った。試しにエンジンをかけると、確かに動く。トコトコトコとスーパーカブ特有のエンジン音が響く。ギアをニュートラルに入れたまま、スロットルを捻る。エンジンの回転数が上がり、フォーーンと良い音が聞こえる。エンジンは元気なようである。

    試乗させてもらえるよう頼み、ミカコ号が数年ぶりにガレージの外へと引っ張りだされた。跨り、ギアを一速に入れる。僕はバイクに乗るのがこの時初めてであった。右手をゆっくりと捻る。トコトコトコと小気味の良い音を鳴らして、車体がゆっくりと前に進んだ。少しずつ加速してゆく。それに合わせ、エンジンの回転数も上昇する。おそるおそるシフトペダルを前へと踏み込んだ。

「ガッコン」

僅かな衝撃と共に、ギアが一速から二速へ入り、エンジン音が変化する。ミカコ号はさらに加速していく。そのまま三速、四速へとシフトチェンジする。シフトチェンジに合わせ、ミカコ号は速度を上げた。とても良い気持ちだった。今まで感じたことのない速さで風を切る。右のハンドルを少し捻るだけで、どこまでも進んで行く。

    状態の良いバイクだった。見た目こそ埃まみれで古っぽく、走行距離も3万キロを超えていたが、それでもエンジンには何の問題も無い。

    このスーパーカブを購入するとしたらいくらなのか、店主に訊いてみると、

「そのバイクで良いなら君の望む値段で売るよ」

と言ってくれた。その時僕がバイク購入に充てられる予算はせいぜい五万円程度だった。

「五万円じゃどうですかね」

「いいよ」

一言で交渉は成立した。内心で僕は飛び跳ねた。これまでずっとスーパーカブを探してきたが、スーパーカブを中古で買おうとすると、五万円などは優に超える。超えないものがあるとすれば、相当状態が悪く、乗り物にならないようなものだろう。そんなだから、僕はほとんどスーパーカブに乗るのを諦めていた。スーパーカブを諦め、僕の予算で乗れるバイクを探しに、地元の小さなバイク屋を訪れたのであった。身体の芯が微かに熱くなるのを感じていた。恋い焦がれたスーパーカブに乗ることができる。

    納車をするから後日また取りに来てとのことだったので、その日はそのまま店を後にし、数日後、再びその店を訪ねた。ミカコ号は店頭の一番目立つ所に置かれていた。背筋を伸ばし、遠くを眺めているようなスーパーカブ特有のフォルムで、僕を出迎えてくれた。埃は拭われて小綺麗になり、荷台の下部にはナンバープレートが取り付けられている。初めて見た時よりも少し立派になったような気がした。

    バイクに乗るには保険に入らなくてはいけないのだが、その保険に入るのにもお金はかかる。ところが店主は、保険料も込みで五万円でいいと言ってくれた。至れり尽くせりである。店主にお金を渡し、店主からは諸々の書類を渡された。こうして、ミカコ号が僕の相棒になった。

 

    メーターを確認すると、走行距離は四万キロに達しようとしていた。この四万キロの距離を、果てしない距離だと思うか、それともまだまだ四万キロだと思うかは、人によるだろう。ミカコ号は四万キロでは満足していないように、僕は感じた。

    キーを差し込み捻る。メーターの『N』のランプが、緑色に点灯する。ハンドルを握り、親指でセルを押した。キュイキュイと甲高い音が一瞬だけ響き、その音が消えるのと同時に、今度はトコトコトコと特徴的な音が響く。エンジンは今日も機嫌がいい。

    ミカコ号に跨り、シフトペダルを一度前へと踏み込む。『N』のランプが消える。それを確認すると、ハンドルを握った右手を手前に少しだけ捻る。エンジンの回転数が上がり、ミカコ号の車体はゆっくりと前に進んだ。段々とエンジン音が大きくなり、速度も上がる。シフトペダルを再び前へと踏み込む。

「スチャッ」

エンジン音の変化だけが、ギアが二速に入ったことを教えくれる。3速、4速と、ミカコ号はどんどん加速する。

    東京という街は、夜中になっても眠らない。それでも、昼間よりはずっと静かで、人の息吹も遠くに感じる。心地よいエンジンの音を聞きながら、秋の冷たくなり始めた空気の中を走って行く。青鬼集落への旅が、こうして始まった。時刻は午前0時。

 

蝉休旅録 青鬼集落への道1

0はじめに    

 

    この物語は事実を元にしたフィクションである。フィクションといっても限りなく事実に基づいている。世にある「事実を元にしたフィクション」の八倍は事実を元にしている。正確には実際の記憶を辿りながら書いた懐古譚であるが、それが生きた人間の記憶であるため所々抜け落ちている部分がある。記憶力は良い方だと思っているので、抜け落ちた物もごく僅かであると考えられるが、そのごく僅かな部分を想像により補ったために、この物語は「ノンフィクション」から「事実を元にしたフィクション」へと変わってしまったのである。自分の記憶管理のずさんを悔やむばかりである。悔やんだところで今後改善できるものでもないのだが。

 

 

1コンクリからの脱却

 

    布団に寝転がったまま天井を見上げる。無機質な光を放つ蛍光灯が、退屈そうにこちらを見下ろしていた。見飽きた景色。かれこれ数時間ずっと布団に寝転がったまま、同じように天井を眺めてはたまに携帯などを確認した。確認したところで何か変化があるわけでもない。ラインを開いては通知の無い画面を見て閉じ、しばらくしてから再び開いてはまた閉じを何度も繰り返していた。特に誰かから来る連絡を待っているというわけでは無い。特にやる事が何も無いので、開いては閉じを行なっていた。この時の僕は、恐ろしく暇だった。

    暇なのはいつもの事である。大学の二回生だった僕は、平日昼間は学校へ行き夕方には家に帰って来る。家に帰って来てからすることと言えば、バイトへ行くか、布団に寝転がりボーッと天井を眺めるかだ。大学入学と同時に田舎から出てきた僕に、都会の土は合わなかった。そもそもその土が無いことに違和感を覚えてしまう。どこを見渡してもコンクリばかり。土を求めて花壇に飛び込みそうになったこともある。

    そんな人間だから、暇な時間に街へ出ようという気にもならなかった。街へ出て買い物したりカラオケしたりして遊ぶよりも、缶蹴りなんかをやってた方が楽しいんじゃないかとも考えた。

    都会が嫌いながら都会に住まざるを得ない人間にとって、暇な時間というのは大いなる敵だ。家で一緒に人生ゲームなんかをやって暇を潰してくれる友人がいればよかったのだが、生憎そんな友人はいなかった。何をするでも無く、ただ時間が過ぎて行く。この停滞感から、どうにかして抜け出さねばならない。都会に住みながら街へ出ることなく、停滞感漂う日常を抜け出す数少ない方法を、僕は知っていた。

 

    都会での退屈から来るフラストレーションは、今までに何度も感じていた。そのフラストレーションがある程度溜まると、僕は旅に出た。旅に出ることで僕は都会のコンクリから抜け出し、日常の停滞感から抜け出した。旅先での自然との触れ合いは僕の心を癒し、旅先での人との触れ合いは僕の心を健やかにした。

    旅の始まりはだいたいいつも唐突で衝動的であった。この時も、例に漏れることはなかった。

 

    天井を見つめながら、「どっか行くかあ」と一人呟く。時計に目をやると時刻は午後10時、明日からは土日休みを挟み、月曜には授業がある。幸いにもこの土日には何の予定もバイトも入っていなかった。寂しいのか寂しくないのか複雑な気持ちになりつつも、「二日あればそれなりに遠くまで行けるな」などと考える。

    旅へ出るなら、まず目的地を決める必要がある。土日の二日で、どこまで行って、帰って来られらだろうか。一人旅というものは、多くの場合無茶をしがちである。月曜に学校へ行かなくてはならないわけだから、最悪月曜の朝までに帰って来れればよい。それならばさらに遠くへ行ける。明日出発するのではなく、今から家出るならば、もっと遠くへと行ける。金曜日の深夜に出発し、月曜の朝に帰って来られる場所。こういった旅は今回が初めてではない。これまでの経験から僕は、片道300キロ以内の場所ならば期限のうちに帰って来られるだろうと判断した。徐々に興奮を増してゆく心を抑えながら、スマホの地図アプリを開く。心が唆られるままに地図をスライドしていく。

    ガイドブックに載っているような名所に、僕はあまり惹かれるなかった。旅の途中にそれらの名所を通った場合は、一応立ち寄ってみたりはするが、それらが旅の目的地になることは無かった。僕はいつも、長閑な農村のような場合に心を惹かれた。そして旅の目的地になるのも、そのような場所であった。

    すると、長野県の北の方に気になる地名を見つけた。青鬼集落。『青鬼』と書いてあおにと読むらしい。直感により、目的地はこの青鬼集落へと決定した。

    雑にシャワーを浴び、着替えをリュックに押し込む。それが何日分の着替えなのかなんて数えもしなかった。あとは必要最低限の物を詰め、一番最後にカメラケースをゆっくり、丁寧に入れた。一瞬にして準備を終え、バイクのキーをポケットに突っ込み家を出た。

ショートエッセイ 蛇口でどうでしょう

    カレンダーのどこを見ても今日の日付が無いことに一瞬戸惑ったが、8月がすでに過ぎ去ったことをすぐに理解した。カレンダーの一番上を引きちぎると、そこに今日の日付を見つけた。見つけたからといって何かが確認できたわけではない。そこにあるのは数字の羅列と、先勝や友引などといった文字ばかりで、その文字の全ては規則正しく印刷されたものであった。後から人の手により書き足された文字は、一文字もない。予定が一つも書き込まれていないカレンダーを、カレンダーと呼ぶことができるだろうか。居住まいをみればポスターと読んだ方がしっくりくる。ズボラな僕の部屋にあるうちは、君はずっとポスターのままかもな。などと壁のカレンダーを憐れんでみたりした。きっとこの綺麗な9月のページも、そのうち綺麗なまま引きちぎられてくしゃくしゃに丸められるのだろう。

 

    9月になっても残暑は続く。一日中外で過ごしたTシャツはツンと鼻をつく汗の匂いを放っていた。一日分の汗と匂いを流すためにシャワーを浴びようと、衣服を脱ぎ捨て浴室へ入る。お湯の温度を確認し、蛇口を捻ろうと手をかける。と、どこからともなく音楽が流れてくる。

 

テ〜テッテッテ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜♪

 

    非常に陽気なメロディー。このメロディーは浴室の外から聞こえてくるものではない。かと言って、浴室内から流れているわけでもない。このメロディーは僕にしか聞こえない。この陽気な音楽は、僕の頭の中で、人知れず流れているのだ。

 

テ〜テッテッテ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜♪

 

    僕はこの音楽を知っていた。ある時はこの音楽が流れるのに合わせて、ちょんまげ頭に袴姿の福助が正座のまま一礼するビジョンが頭の中を駆け巡る。そのビジョンに見覚えのある人は、僕以外にも大勢いるはずだ。

    『水曜どうでしょう』というテレビ番組をご存知だろうか。元々は北海道のローカルバラエティ番組であったが、レギュラーを務める大泉洋の軽快なトークと水どう(水曜どうでしょうの略)独特の雰囲気により人気を博し、1996年の初回放送以来全国にファンを獲得している。レギュラー放送は2002年に終了しているものの、不定期での新シリーズ作成は今なお続いている。

    過去にこの番組のオープニングで、ちょんまげ頭に袴姿の福助が正座のまま一礼する映像とともに流れていたのが、

 

テ〜テッテッテ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜♪

 

という音楽だった。

 

    その音楽がなぜか、風呂場の蛇口を回そうとすると突如として僕の頭の中に流れ始める。それも毎回必ずだ。風呂にはだいたい毎日入る。風呂に入るにはまず体を洗う。体を洗うためにお湯を出そうと蛇口を捻る。その瞬間である。

テ〜テッテッテ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜♪

が流れ出すのは。僕はほぼ毎日、正確には風呂に入る度に自分の頭の中を流れる水どうのオープニングメロディーを聴いていることになる。

 

    この世の中には『記憶術』と呼ばれるものがあるらしい。『記憶力』とは違い、『記憶力』が単純に記憶しておく力であるのに対して、『記憶術』は字の通り記憶するための術であるらしい。記憶術の先生(名前は忘れた)によると記憶術の中には、自分にとって身近な場所と記憶したい事柄をリンクさせることで、記憶しやすくするという方法があるらしい。

    具体的に説明すると、例えば明日郵便ポストに手紙を投函しなくてはいけないとする。これは絶対に出し忘れてはいけない手紙だ。そして絶対に明日投函しなくてはいけない手紙である。この時、『手紙を郵便ポストに投函する』という行為と、例えば『自宅玄関の扉』をリンクさせる。そうすると、『自宅玄関の扉』を見るたびに『手紙を郵便ポストに投函する』という行為を思い出し、大事な手紙を出し忘れるといった事は無くなる。

    これが記憶術というものらしい。

 

    どうやら僕の場合は、『風呂場の蛇口を捻る』という行為と『水どうのオープニングメロディー』がリンクしてしまっているようだ。勿論僕がリンクさせようと思ってリンクさせたわけではない。僕には水どうのオープニングメロディーを忘れてはいけない理由なんて何も無いのだから。『風呂場の蛇口を捻る』ことと『水どうのオープニングメロディー』は僕も知らない無意識のうちにリンクしていたようである。

 

    僕としては、風呂場の蛇口を捻るたびに

テ〜テッテッテ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜レレ〜♪

と聞こえてくるからといって何か特別困るわけでない。故に僕がこのリンクを解除する努力をすることは、この先無いだろう。

    そんな努力をしなくとも、いつか記憶術が時間の流れに負け、リンクが生まれた時と同じように、僕も知らない無意識のうちにリンクが解除されたりするのだろうか。今のところそんな気配は全く無いが。

 

    その日が来るまで、水どうの陽気なオープニングメロディーは僕が浴室の蛇口を捻るたび流れ続ける。

ショートエッセイ 外来種

ザリガニという生き物を知っているだろうか。赤い体、長い触覚、前足に巨大なハサミを持ち、水中を後ろ向きに高速で移動する。

 

カブトムシやクワガタムシが夏のスターならば、ザリガニはまさにスーパーサブといったところだろう。子供達からの人気はカブトとクワガタに劣るものの、このスーパーサブは雑食性で何でも食べるうえに、汚れた水の中でも生きていけるタフネスさを持っているため、比較的簡単に飼育ができる。この飼育の容易さのために、ザリガニをペットにするちびっこも多かったのではないかと思う。

 

そしてこのザリガニを長年不動のスーパーサブたらしめてきたのが、捕獲時のアクティビティ性だろう。僕が子供の頃、ザリガニ釣りはまさに釣り人の登竜門であった。立派な竿やリールを使ったフィッシングを知る前に、近所の兄ちゃんから棒切れとタコ糸を使ったザリガニ釣りを教えられる。そこで一人前にザリガニを釣り上げられるようになると、ようやく次にナマズを釣ることが許されたものだ。僕の地元の少年達はこうして立派なアングラーへと成長してゆくのだ。

 

このように親しまれてきたザリガニだが、知っての通り我々がザリガニとして思い浮かべているものは、正式には「アメリカザリガニ」と呼ばれる。その名の通りアメリカ生まれなのである。

1920年代に食用として日本に持ち込まれたのがウシガエル。そのウシガエルの餌としてやってきたのがアメリカザリガニ。このうちカエルに食われるのを嫌がった連中が逃げ出し、驚異的な勢いで繁殖を遂げた。アメリカ生まれのタフネスザリガニは、あっという間に日本全国へと生息域を広げたのだ。

 

アメリカザリガニが日本のあちこちで猛威を振るう以前は日本にザリガニがいなかったのかというと、そうではない。日本には元々、ニホンザリガニと呼ばれる種が生息していた。聞いたことのある人は多いだろうが、見たことのある人は少ないのではなかろうか。薄い赤茶色のズングリした体、大きさはアメリカザリガニよりも一回り小さい。東北と北海道に生息し、涼しく水の綺麗な場所を好む。とてもおしとやかなザリガニだ。

このニホンザリガニの生息域である東北より南西の地域の人は、アメリカザリガニが繁殖するまでザリガニという生き物を知らなかった。言い換えれば、ザリガニという生き物を全国区にしたのはアメリカザリガニの功績ということになる。

 

そんなアメリカザリガニだが、生き物の研究をしている方々からは外来種と呼ばれあまり良い印象を持たれていない。

なんと数奇な生き物だろうか。

アメリカの広い大地に生まれたはずが、船に乗せられほとんど地球の裏側の島国に連れて来られた挙句、巨大なカエルの餌にされかけた。そこから決死の脱走によりなんとか生き延び、知らない土地で知らないものを食べながら命を繋いだ。その中で生き物の理としての恋も当然経験しながら、日本の自然界をしぶとく生きぬいてきた結果、生態系を破壊する外来種としてブラックリスト入りを果たしてしまったのだ。

最近では人の手により住処の水を全部抜かれた大量のアメリカザリガニ達が、偉い先生に

「これも外来種ですね〜。駆除した方がいいですね〜」

などと言われながらさも悪党らしく紹介されているのをどこかで見た。気の毒という言葉がこれほど似合う生き物がいようか。

 

外来種はいつまで外来種なのだろう。アメリカザリガニが来日してから一世紀近くが経とうとしている。そろそろ帰化させてあげてもいい気がしてくる。あの厳つい両手では自力で申請することもできないだろう。

他の場所から来た生き物がその場所の生態系の一部として認められるのには、いったい何百年かかるのだろう。それとも何千年経とうが、外来種外来種のままなのだろうか。

 

ショートエッセイ 甲子園の土

例年よりも涼しいかと思われた今年の夏は、8月の手前で「お待たせ〜」とでも言うかのように暑くなり、ここ数日は35度超えを連発している。別にこっちは待ってはいない。

 

とは言うものの僕としては暑いのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。幼い頃から冬よりも夏の方が好きだった。いわゆる夏の風物詩と呼ばれる物と触れ合っていると、どこか懐かしいような感覚に包まれる。そんな感傷に浸りながら、僕の一日は暮れていく。

 

夏祭り、スイカにカキ氷、蝉の声。様々な夏の風物詩により僕は感傷の中に引っ張り込まれてゆくわけだが、その中でも僕に対して特に強い引力を発揮する風物詩がある。

甲子園だ。

 

僕自身高校時代までは野球に熱中した野球少年だったのもあり、甲子園は毎年ワクワクしながらチェックしている。しかしお茶の間でテレビの向こうの球児の挙動を観察しながら、僕にはどうしても気にせずにはいられない箇所がある。

–甲子園の土–。

野球をやっていた人ならば、甲子園で敗けたチームは甲子園の土を持って帰るという慣習があることを知っているだろう。そしてその慣習にどういった意味があるのかに考えを巡らせたことがあるはずだ。むしろ野球を知らない人ほど、試合後に選手達がベンチ前にしゃがみ込み、両手でかき集めた土を袋へと詰め込む姿はより奇妙に映るのではないか。

持ち帰ってどうする?

これを考え始めるともう試合どころではない。贔屓の高校の勝敗よりも、選手の足元にある広がる黒色の土の行方が気になって仕方がない。

 

熾烈を極める地方大会を勝ち抜いた選手達が、記念として甲子園の土を持ち帰るというのはわかる。もし僕が甲子園に出場できたなら、特に何も考えずに土を持ち帰って来るだろう。しかしそこは少し考えてみてほしい。記念ならば別に土じゃなくていい気がしてこないだろうか。というかろくに考えなくても、記念品としてよりによって土を持ち帰るなんて相当変わり者だ。インド旅行に行った友人がお土産にガンジス川の河原の土を持って来たらびっくりだ。インスタントカメラで撮った写真の方が、いくらかマシな記念品になると思われる。

 

しかし未だに甲子園の土は持ち帰り続けられている。こんなことを書くと全国の球児達に怒られてしまいそうだが、あの土には価値があるのだろうか。

甲子園の土といっても、元を辿って行けば鳥取の土と岡山の土と何処だかの土と何処だかの土を混ぜ合わせたものだ。詳しくは覚えていない。だが頑張れば自分で甲子園の土を作ることも可能である。

そんな色んな土をブレンドしたものが、甲子園球場には撒かれている。それを球児達が持ち帰り、その上にはまた新しい土が撒かれる。

表面の土は入れ替わりが激しいので、スコップで30㎝掘ったところの古い土を持ち帰れば、厳重注意と引き換えにより高い価値がその土には付く。だろうか。

 

こんなことを考えている間にも、液晶の向こうでは試合終了のサイレンが鳴り響く。